明治の修理

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概要

着工  明治36年(1903)10月

日露戦争(1904)のため一時中断

明治42年(1909)再開

竣工  大正2年(1913)

費用  2万円あまり(市の寄付金3700円を含む)

ちなみに大正2年の松本市の経常歳出が6万1000円)

経緯

時長野県中学校の校長であった小林有也が旧本丸広場を中学校運動場にするとともに、天守を管理することを出願し、明 治35年(1902)に本丸跡の果樹 園は中学校運動場となった。 これを機会に久しく天守の荒廃を嘆いていた小林は松本町長 小里頼永らとはかって、天守閣保存会を設立し、明治35年9月長野県 知事からその許可を得、その補修計画を起こし、寄付 金の募集に東西を奔走し、同36年にその工事を始めた。

<aside> 💡 関連項目;市民の手による保護

</aside>

関連記事:松本城天守は傾いていたのか

昭和の大修理

◆ 昭和の大修理 以前のノートより 1996/7/9

****城の修理代(多分昭和の大修理? )はいくら?

着工  起工式             昭和25年(1950)6月8日

解体工事着工          昭和25年8月

解体工事完了          昭和27年

復元 釿始式          昭和27年6月11日

復元 上棟式          昭和28年10月3日

竣工                  昭和30年(1955)10月1日

施工  本体工事            株式会社相模組

素屋根かけ  天守       島藤建設株式会社

乾小天守・渡櫓  国際建設株式会社

工事費 解体・復元本体工事       49,783,748円          (国費)