平成2年「松本城築城年代懇談会」(金井園東大教授・平井聖東工大教授・服部英雄文化庁記念物 課調査官・郷土史家3名・教育次長1名)は可能な限りの文献史料を集め検討した結果、文禄2年12月以降文禄4年2月以前に大天守・渡櫓・乾小天守は一体として造られたとした。 これが松本市の 松本城天守築造年代の公式見解である
松本城は、豊臣秀吉が石川数正に命じ、その子康長が造ったといわれる。 康長は、その後改易されたため、多くの記録が消失。 松本城築城の時期は長く不詳のものとなっていた。 しかし、平成5年(1993年)、築城当時の棟梁のことが書かれた「系図の覚」が公開され、築城時期がほぼ確定したという。 TSB 松本市市制施行100周年記念特別番組 歴史ロマン「松本城を造った男 たち」より
◆ 青木資料 2011
現在松本城天守の築造年代については7つの説が有り、文禄元年~慶長20年(1592~1615) に渡っている。 慶長20年説は文禄元年に石川数正が建てた天守は現在の乾の小天守であり、現在 の大天守は石川氏の後に入封する小笠原氏であるとしている。 しかし、文禄元年には数正は朝鮮出 兵で肥前名護屋に在陣しており、その年の12月には数正の葬儀が京都で行われている。 さらに小 笠原氏は慶長18年に松本に入封し19年には大坂冬の陣、20年には大坂夏の陣に出陣しており、 夏の陣では小笠原秀政・忠(ただ)脩(なが)が討ち死にしていて天守建設は難しい。 また地方(じか た)の徴発された農民に関する記録は一切存在しない。 したがって、慶長20年説は成立しがたいと 思われる。 天守築造が丸岡城は天正4年(1576)建設で最も古いとされてきたが、慶長13年(1613)が妥当 との説が示されている。 また、犬山城は解体修理の結果慶長6年(1601)説が有力である。 (「天守 のすべて」①Gakkenによる) したがって、現存天守の中では五重六階の天守としては日本最古といえる。
◆ ウィキペディア
天守の建造年には、いくつかの説がある。 「天正19年(1591年)説」、「文禄3年(1593年)説」、 「慶長2年(1597年)説」、「慶長5 年・6年(1600年 1601年)説」、「慶長20年(1615年)説」 である。 いずれも、主に大天守の建造年を示したものである。
・天正19年説は、大類伸・鳥羽正雄の共著『日本城郭史』に見られる説で[2]、宮上茂隆は1992 年に発表した論文において石川数正とその子康長により建てられた第1期天守の建造年と考え、 大天守ではなく現在の乾小天守であると主張している[3]。
・慶長2年説は、昭和15年(1940年)に城戸久が論文において述べた説で、当時定説となっていた 竣工文禄3年説[4]また慶長5年・6年説[5]を否定し、文献を元に文禄3年着工、慶長2年竣工が 至当であると主張している[2]。
・慶長20年説は、大坂の役(1614年 1615年)前後の建造とする宮上茂隆の説と同様で慶長 20年(1615年)に小笠原秀政によって建造されたとするものである[6]。
層塔型天守に分類されているが、慶長2年(1597年)建造とする場合、最初の層塔型天守とされ る丹波亀山城1609年 1610年ごろ建造)に10年以上先立つので、建築史の観点から望楼型 と見なすことがある[7]。 その一方で1950年から1955年に行われた解体修理の時、いくつかの 改築の痕跡が見つかっていることなどから創建当時は、望楼型で最上階には外廻縁高欄があり、 各重の屋根には多くの破風を取り付けた姿であったと推定されており、松平氏により付櫓と月見櫓 が増築された寛永10年(1633年)に現在のように造りかえられたと考えられている[8]。
脚注 2 城戸久「松本城天守造営年次に就て」『建築学会論文集』第19号 日本建築学会編、昭和 15年(1940年) 3 宮上茂隆「松本城丸岡城天守の建造年代 : 現存最古の天守遺構は松本城第1次天守(乾小 天守)」『学術講演梗概集. F, 都市計画, 建築経済・住宅問題, 建築歴史・意匠』 日本建築学会 編、日本建築学会、1992年。 4 河村淳・梶元成・松本吉雄ら著『松本城』昭和6年(1931年) 5 田邊泰『松本城天守閣』昭和13年(1938年) 6 『ビジュアルワイド 日本名城百選』村田修三監修、小学館、2008年 7 金井圓 『松本城 -その歴史と見どころ-』名著出版、1984年、p.113、ISBN 4626011284。 ) 8 西ヶ谷恭弘・香川元太郎『ビッグマンスペシャル 日本の城 [戦国〜江戸]編 完成された城郭 の構造』世界文化社、1997年
◆ 天守の築造年 kitakami 2010/6/13 (投稿)
昨日12日、本屋で日本文芸社発行の「日本の城」(学校で教えない教科書シリーズ)の松本城のページを立ち読 みしていたら、驚くべき事が書いてあったので紹介します。 1594年頃石川数正親子が乾子天守を建立し、1620年ごろ小笠原秀政が大天守を建立したと書かれていまし た。 私達は松本城研究専門員の先生方から大天守、乾子天守、渡り櫓は1593~94年のかけて造られたと教え られましたし、他の本にもそう書かれています。 私個人としては2年程であの大工事が完成できたのか甚だ疑問な のですが。 青木専門員先生は他の城(何処の城か忘れました)も2年位で完成された例はあると言っていますが。 やはり大天守と渡り櫓は後で立てられた説もあるのかとも思いました。 でもこれは全く始めて聞く話です。 この本の 監修は三浦正幸という広島大学大学院の教授です。 小笠原秀政が大天守を建てた根拠は書かれていませんでし た。 秀政は松本在城僅か4年でしかも大阪冬、夏の陣に出陣して忙しくとても築城などは不可能です。 しかも夏の 陣で戦死しています。 どうして、こんな説が出たのか不可解です。 青木先生にも聞いてみようと思います。 会員の 皆様でこの説をご存知の方がいましたら教えてください。
◆ 続:天守の築造年 kitakami 2010/6/14 (投稿)
青木研究専門員先生に伺いました。 先生曰く。 松本城の建立年については巷では諸説紛紛です。 いづれも学術的には実証されていません。 しかし、松本城については、故金井円圓先生(元東大名誉教授)以来諸研究者によって現説に至っており自身を持 っています。 広島大学三浦教授は歴史家ではありません。 建築家です。 その根拠は「松本城のような層塔型天守は建築史上で は1610年以降の建物として位置づけられている」です。 しかし、建築史上はそうでも松本城は早期層塔型と言え るのではないかと言う学者もいます。 三浦教授は歴史学者でもないのに無茶なことをよく言ってくるので文化庁で は相手にしていないそうです。
約2年間で築城された件について青木先生は次のように説明されました。 1.姫路城大天守は約2年で築城されたと言われている。 松本城も2年で完成されても不可能ではない。 2.湿地帯に築城したので2年では不可能であるとの質問にについては~。 築城前5年程から調査しその資材などを既に準備していたので短期間での完成も可能だったと考えられる。 そ の実証として、北九州にいた数正から康長宛ての手紙に「蓄えてある資材は他の事に使ってはならぬ」と書かれて いた文が現存しているからと先生は説明しています。
以上築城ひとつ取り上げても、色々あって面白いですね。 私ももっと勉強してみたいと思いました。 遠い昔の事を 実証するのは大変な事ですが、その事を色色と想像するは楽しいことです。
◆ 天守の築造年 関 2010/07/? (投稿)
現場ノートより
現場のノートには、この記事について書かれていたのです。
平成5年(1993)4月1日発行
松本城鉄砲蔵 第8号
おはなし松本城
第三回
天守はいつ造られたか
今年は国宝松本城築造四〇〇年まつりが行われ ます。 その築造の根拠をどこに置くかは中々難しい 問題ですがお話してみましょう。 「信府統記」という水野氏時代に書かれた藩の記 録には、天正十九年(1591)に石川数正が松本城 に入城して、まず「当城ニノ曲輪ノ内二慰所ヲ作」 り、「城普請ヲ催ストイエドモ未ダ成ラズ」、文禄二 年(1593)康長が相続して「父康昌(数正)ノ企テル 城普請ヲ継、天守ヲ建、総堀ヲ浚へ幅ヲ広クシ、岸 ヲ高クシテ石垣ヲ築」いたと記されています。 この記録から、二代目の康長の時に天守が築かれ たことはわかりますが、何時造られたかについては わかりません。 もともと築城というものは、大名にと っては最高の軍事機密でしたから築造年次につい てもわからないのが一般的です。 特に石川氏は築 造を理由に改易されたために史料が残されていな いのです。 こうしたことから築造年次については様々な説が発表されているのです。 例えば、天正末年説、文禄三 年説、慶長初年説などです。 ところで平成五年から逆算して四〇○年前というと文禄二年(1593)になりますが、その根拠についてお 話しましょう。|まず第一は、石川数正時代には天守築造まで手が及ばなかったことがあげられます。 松本城に入った当 時は、領内の民心の安定や領域の確定などの問題があり、それが一応治まる頃の天正十九年七月には、 秀吉から朝鮮出兵命令が下り、数正は九州名護屋へ出陣をします。 そしてそこで病を得て病死し、天正二 十年十二月(文禄と改元)に京都二条河原で葬儀がとり行われたのです。 とすると数正の天正十八年入部 から文禄元年死去までの間には天守築造は困難であったと考えられます。 次に康長の時代になりますと築造に関係すると読みとれる史料が僅かですがあるのです。 肥前名護屋 から松本在住の四人の肝煎にあてた手紙に「此方用所ニてきらせ置候材木、遣事無用候」とあるのです。 これは正行寺造営のために材木を使ってはならないことを命令したものですが、この材木は天守築造の用 材として伐らせたものではないかと推定されるのです。 この推定を裏づける史料として、正保六年に書かれた永井氏の「系図の覚」があります。 その中に「文禄 二年二代目石川様二付、御天守建られ、奉行致し候、縄張の手から致しほう美被下候」と書かれているの です。 文禄二年若しくはそれ前に天守築造が行われていたのです。 文禄三年には築造を感じさせる史料は全くなく、四年になると城下町の整備に関係した史料が出てきま す。 二月には宮村町の家作木300本を山辺山から伐り出すことを認め、三月には同じく東町に対して600 本を島々山から伐り出すことを許可しています。 このことは、すでに天守築造が終って城下町の整備が郭 内から郭外へと進められているとみることが出来はしないでしょうか。 こうしてみてきますと、文禄二年は天守築造の起工にあたった年と考えられるのです。 (中川治雄)