松本城の縄張り

縄張り

(1)坂西氏(ばんざいし)とその居館 小笠原氏は林城をその拠点としていたが、小笠原氏の城将坂西氏は現在の松本城本丸付近に館城を構えた。 平地に築かれた方1丁(約120m)四方の館で周囲に堀をうがってその土を掻き揚げて土塁を造り防塁としてい た。

館城は日常生活の場に防備を施した簡易の城であり、坂西氏は郭内に自らの居館と親族の殿舎を置き、物見 櫓を配置し土塁上には柵木が設置されていたと推定されている。

(2)武田信玄によって整えられた戦国時代の名残の縄張りを残す松本城 天文19 年(1550)武田信玄は小笠原氏を追い信濃府中を手中にする。 武田氏は小笠原氏の本拠の山城の林 城を破却し湿地帯の中の深志城に着目し、林城自落4日後の天文19 年7 月19 日に修築の鍬立(くわだて)を行 い、23 日には 総普請に取りかかっている。 近世の松本城の縄張りには武田流築城術の特徴である馬出が4ヶ 所、さらに、南門も馬出であったと推定されることから、武田氏時代には次頁の図のように坂西氏館は大きく改変さ れたと考えられ、近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の縄張りは、ほぼこの時、出来上がっている。

1582 年(天正10)武田氏が滅び、旧地を回復したのは小笠原氏で、深志城を松本城と改めた。

曲輪

南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲むとい う、梯郭式に輪郭式を加えた縄張りである。 これらは全て水堀により隔てられている。 惣堀が北西部で内堀と兼用 しているので北西部が手薄のように見えるが、北西部は湿地帯が広がっていて天然の防御になっていた。

<aside> 💡 関連項目:曲輪配置の種類

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曲輪(一般)

縄張と主要な曲輪 城郭での戦いの勝敗を決める要素の一つに、城郭の形状・構造が挙げられる。 そのため築城に際して、なるべく防御側に 有利になるよう、城郭の立地なども考慮して縄張(なわばり、城郭の設計・計画)が決められ、曲輪が配置される。 縄張の基 本は主要な3つの曲輪、すなわち城郭の核となる本丸(ほんまる)の周囲に、補佐的な二の丸(にのまる)、三の丸(さんの まる)を効果的に縦深配置することと言える。

一般に、縄張は大きく分けて次に分類されている。 輪郭式 本丸を囲む二の丸、二の丸を囲む三の丸、という縄張である。 4方向に対して等しく防御が厚くなるが、曲輪を囲んで いく構造のために城郭の規模を大きくせざるを得ない。 平城に多い縄張である。 (例:山形城、松本城、大坂城など) 円郭式 輪郭式の亜流で中央にの本丸の周囲に円形、ないし半円形に二の丸、三の丸が配置される。 (例:田中城など) 連郭式 本丸と二の丸を並列に配置する縄張である。 奥行は深くなるものの、本丸の脇や背後が露出してしまい、その結果 搦手等の守りが追手(大手)に比べ手薄になることもある。 (例:松山城 (備中国)、松山城 (伊予国)、盛岡城など) 並郭式 本丸と二の丸が並び、その周辺を別の曲輪が取り囲む形式で、詰めの丸が本丸と並ぶ場合もある。 (例:大垣城、島 原城、大分城など) 梯郭式 本丸を城郭の片隅に配置し、その2方向、あるいは3方向を他の曲輪で囲む縄張である。 本丸の露出している側(た とえば背後)に、湖沼や山河、絶壁などの「天然の防御設備」がある場所に向く縄張である。 (例:岡山城など) 階郭式 曲輪群を階段状に配置する形式で戦国時代の山城や江戸時代の初期の平山城にこの構造の城郭がある。 山や丘 の地形を活かし築城される場合が多かった。 (例:姫路城、丸亀城、熊本城など)

個々の城郭は上記に必ず分類されるわけではなく、これらの変形・発展型や合体型(例えば“輪郭式+梯郭式”とい ったように)と言えるものも数多くあった。 また、これらの型式のみでは分類が難しい城郭もある(単郭式など)。 そのほ か研究者によっては、同じ城でも区分名称や認識が違う場合もあれば、その他の名称を使って細かく分類する場合も ある。                                     ウィキペディアより

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天守の縄張り