松本城の位置は女鳥羽川と薄川の複合扇状地の縁、 地図に入れてみるとよくわかる。 湿地帯の部分は以前「泥町」という町名がありそこからもそのエリアが湿地で自然の要害になっていたのが想像できる。
コーヒーブレイク
中町の明神さまを信心してよく通った祖父母のはなしでございます。 新町の家を出て片端(かたは)へくだり、柳町へぬけての。 あそこはむかしは泥町(どろまち)といった湿 地(しけっち)で、ほんとに柳の木がたんとあって、春さきなんぞ、浅黄いろに枝垂れた柳すだれのむこうに 天守閣が、ちらちら、見えての。 明神さまの帰りには、大手橋(いまの千歳橋のあたり)をわたって、繩手 へぬけてみることもあったよ。 大手橋をわたるにゃ、男も女も、かぶりものをとらにやならなんだ。 橋のつき あたりに大手門があって、両袖の、それは立派な石垣をこわして、千歳橋を組み、緑橋を組んだのが、あれ は明治九年のことだとおぼえてるがの。 そのころには、お城のぐるりに田んぼがいくらもあって、春の終わり、荒れて傷んだお城を眺めちゃ、せっ せと田植えに汗かいたものでの。 五月三十日、泣く子が欲しや。 あぜに腰かけ乳くれる。 赤ん坊が泣けば、それをかずけ(口実)に、し ばらく乳をふくらませ、からだを休めることができたわけさね。 えらく遠いむかしのことだが、おらお城を見る たんびに思い出すぞい。 松本城物語より
ボーリング調査 昭和の大修理の際ボーリング調査を行っている。 試錐結果からわかるように、この付近は礫層・砂層・粘土層等の互層よりなり河川堆積層であること は明らかであり、砂礫はいわゆる内村層に属するものと考えられる。 安山岩・玢岩および火山砕屑 岩を主とし、石英閃緑岩を含まないこと等により、その上流の地質を考慮するときは、女鳥羽川の堆 積物であることが推測されるが、軽々しく断定することはできない。 また地表近くに有機物が存在し、史実でも明らかなように、この地帯がかつて沼沢であったことが 知られ、この層の地帯力に及ぼす影響は大きいものと考えられる。 後略 「国宝松本城」教育委員会より抜粋
この「国宝松本城」では具体的なデータが示されておらず、不明な点が多いが、天守台復元にあたり、表面付 近の腐植土層は厚さが30~40cmで、施工上あまり影響ないが、問題の地層はその下位の粘土混じり礫層 において「No3 ボーリング位置の地耐力が他の3点に比べ弱い」と結論づけている。
下記の引用をまとめると、下図のようになる。 このような処理を施した城は他にないそうだ。 当たり前です よね、誰もこんなところに建てないもの ほんとになぜこんなことをしなければならないような場所に城を建
てたのか?地理的な位置については街道が交わる交通の要所であり納得できるが、もっとミクロ的に見ると地質 の項でもわかるとおりたぶん30~40m北東側ならこんな軟弱地盤対策は必要なかったのかもしれない。 だけど昔の人も馬鹿じゃないからしれなりの理由はあったと思う。 それは現代の技術があれば回避できたかもし れないが...
ここからは私の想像