ここは望楼型の名残が残る屋根裏部屋的な階です。 二重目屋根がこの階の回りを巡っているため窓がありません。
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天守内とは思われない居室風の造りになっている。 小壁があり内法長押が廻っています。 ここはいざという時領主を移す階である御座所と考えられています。 切腹目的の場所ではありません。
松本城天守の階段は柱と柱の間にあげている。 大天守の柱間は197cmです。 したがって天井が高いと急になります。 柱と柱の間にあげることを原則にしているのは階段裏のスペースが有効利用出来ないからと思われます。
作戦会議室といわれています。 この階に4方向の破風が設けられており、その裏側部分が張り出しています。
5階から6階に上がる階段は天井が4m54cmと高いため柱の間に天井をあげられず。 柱二つ分の間に踊り場を設け て階段をあげている。
貞享騒動(加助騒動)のあらまし 今を去る三百余年前の貞享3年(1686)、松 本藩に起こった騒動である。 松本藩の年貢は近隣の藩に比べて厳しかった。 その当 時、籾1俵は玄米2斗5升挽き(1 俵に5 斗籾入り)であるのに、松本藩では3斗 挽き(1 俵に6斗籾入 り)に耐えていた。 近年不作が続いて困窮を極めて いたのに、この年の収納に当っては、のぎ踏磨きと3斗4・5 升挽き(籾 1 俵に 6 斗8升~7斗入 り)を厳命してきた。 多田加助を首領 とする同志は、、両5千石並の2 斗5升挽きの要求など5ヶ条の訴状をしたため、14日郡奉 行へ訴え出た。 この企てが村々へ伝わ ると、農民達はこれに加勢しようと、蓑笠に身を固め鋤鍬を手に、四方 から城下へと押し寄せた。 日増しにその数は増加して万余におよんだという。 家老らは騒動の長引くのと、江戸表への直訴を恐れて18日に、2斗5升挽きをも聞き届ける旨の家老連判覚 書を出したので、加助ら同志と居残っていた農民は、一応安堵して村々へ引き上げ騒動は鎮まった。 ところが藩ではその後、村々へ先に渡した覚書を返上させ、嘉助ら首謀者は処刑された。 その刑は磔8人、獄 門20人という極刑で、百姓一揆稀にみる犠牲者多数であった。 松本城クイズから抜粋